YouTube Shortsに潜む悪魔

雑談

私は逆張り気質なのか、いまだにTikTokを使っていない。

その一方で、YouTube Shortsは普通に見ている。つまり、特に信念があるわけでもない、ただの芯のない人間だ。

そんな私がShortsを見ていて、気になることがある。

気になる場面で動画がぶつ切りになっていることが、異常に多いのだ。

「この後どうなるんだ?」

そう思った瞬間、気づけばもう一度最初から再生している。一回見直せば続きを見られる気がするからだ。しかし当然ながら、再生されるのは同じ動画。結局、肝心な部分は見られない。

それなのに、また見てしまう。

特にアニメや映画の切り抜きは危険だ。数十秒しか見ていないはずなのに、まるで作品全体がとてつもなく面白そうに思えてくる。実際に本編を見たら、そこまででもないこともあるのだろう。しかし、Shortsでは作品の中でも特に魅力的な場面だけが抽出されている。

よくできた仕組みだと思う。

最近になって、ドーパミンというものの恐ろしさを少し理解した気がする。

人生で最も強烈な興奮を覚えたのは、たぶん4歳くらいの頃にWiiで『マリオブラザーズ』を遊んだときだ。心臓がバクバクして、妙に目が冴えて、世界がそのゲームだけになったような感覚があった。

もちろん、YouTube Shortsで感じるものは、あのときとは違う。

あれほど強烈ではない。もっと弱く、もっと緩やかだ。

だが、その代わりに終わりがない。

次の動画へ、また次の動画へ。気になるところで切られ、続きが気になり、気づけば何十分も画面を見続けている。

強烈な快感ではなく、薄く引き延ばされた快感。

もしかすると、それこそがShortsに潜む本当の悪魔なのかもしれない。

しかし、私が本当に恐ろしいと感じるのは、視聴者側の問題だけではない。

Shortsには、もう一つの奇妙な側面がある。

それは、何者でもなかった一般人を、突然何者かにしてしまうことだ。

YouTube Shortsは、動画投稿を始めるハードルが比較的低い。スマートフォン一つあれば、誰でも簡単に参入できる。

そして、ときには何気なく投稿した動画がアルゴリズムに拾われ、昨日まで無名だった人が突然有名になる。

再生数が増える。コメントがつく。フォロワーが増える。自分の投稿を楽しみにしてくれる人まで現れる。

それまで何者でもなかった自分が、急に世間から認識され始める。

これは、相当に気持ちのいいことだろう。

問題は、その状態がいつまでも続くとは限らないことだ。

Shortsの推薦アルゴリズムが、特定の投稿者を永遠に優遇してくれる保証はない。流行が変わることもあれば、視聴者の関心が移ることもある。以前は何十万回も再生されていた動画が、いつの間にかほとんど見られなくなることだってある。

半年後なのか、一年後なのか、それとももっと先なのか。

いつまで続くかはわからない。

しかし、一度その成功を経験してしまった人間は、以前と同じ気持ちで動画を投稿できるのだろうか。

最初は、ただ楽しかっただけかもしれない。

なんとなく動画を投稿して、たまたま伸びた。面白いことになったと思い、次の動画を投稿した。それも伸びた。気づけば、再生数を確認することが日課になっていた。

そして、いつしか再生数が伸びることが当たり前になっていく。

もっと見てほしい。もっと有名になりたい。できることなら、この状態を維持したい。

こうなったとき、動画投稿は単なる趣味ではなくなる。

自分が積み上げてきたものを守るための活動に変わっていく。

ところが、その成功を支えているものの一部は、自分の努力だけではどうにもならないアルゴリズムなのだ。

昨日まで自分の動画を多くの人に届けてくれた仕組みが、今日も同じように働いてくれるとは限らない。

それでも、本人には理由がわからない。

動画がつまらなくなったのか。流行が変わったのか。投稿する時間が悪かったのか。それとも、単に運が尽きただけなのか。

答えがわからないからこそ、もう一本投稿する。

次こそ伸びるかもしれない。

もう少し工夫すれば、以前のように戻れるかもしれない。

そして、その「もう少し」が、いつまでも終わらない。

私は、この構造が非常に恐ろしいと思う。

YouTube Shortsは、成功することを目指していなかった人間にまで、成功を経験させてしまう。

そして、一度成功を経験した人間に、その成功を維持したいと思わせる。

もちろん、Shortsで有名になった人が全員不幸になるわけではない。そこから活動の幅を広げ、安定した仕事につなげる人もいるだろう。

しかし、少なくとも、アルゴリズムによって得られた注目が、そのまま自分の実力や将来の安定を保証してくれるわけではない。

それにもかかわらず、再生数が伸びている間は、その違いに気づきにくい。

自分が人気なのか。それとも、自分の動画がたまたま推薦されているだけなのか。

その境界線は、成功している最中には見えにくい。

だからこそ、気づいたときには引き返しにくくなっているのかもしれない。

何者でもなかった頃には、動画が伸びなくても困らなかった。

しかし、一度何者かになってしまうと、以前の自分に戻ることが怖くなる。

これまで得てきた注目を失うことは、単に再生数が減ることではない。自分に向けられていた関心が消え、かつての自分に戻っていくことでもある。

それを受け入れるのは、案外難しいのではないだろうか。

そして、ここで最初の話に戻る。

視聴者は、次こそ面白い動画が見られるかもしれないと期待して、画面をスクロールする。

投稿者は、次こそ以前のように伸びるかもしれないと期待して、動画を投稿する。

立場は違う。しかし、どちらも過去に得られた報酬を、もう一度手に入れようとしている。

視聴者は、終わりのない暇つぶしに時間を差し出す。

投稿者は、終わりが来るかもしれない成功に時間と労力を差し出す。

片方には、次の動画がある。

もう片方には、次の投稿がある。

そして、どちらにも「次こそ」という期待がある。

YouTube Shortsは、視聴者を動画の中に閉じ込めるだけではないのかもしれない。

投稿者までも、再生数という数字の中に閉じ込めてしまう。

視聴者には、次の快感を期待させる。

投稿者には、次の成功を期待させる。

その期待がいつまで続くのか、いつ終わるのかを、本人が決められないところに恐ろしさがある。

もちろん、これは私の考えすぎなのかもしれない。

ただ動画を楽しんでいるだけの人もいるし、Shortsをきっかけに人生が豊かになった人もいる。すべてを悪い仕組みとして片づけるつもりはない。

それでも、思うのだ。

人間の注意を引きつけること。ほんの少しの期待を与えること。そして、その期待を何度も繰り返させること。

それだけで、人間は驚くほど多くの時間や労力を費やしてしまう。

視聴者は、もう少しだけ見ようと思う。

投稿者は、もう少しだけ頑張ろうと思う。

そして、気づけば、その「もう少し」が生活の一部になっている。

もしかすると、本当に恐ろしいのはShortsそのものではない。

一度与えられた快感や成功を、もう一度手に入れたいと思う人間の性質を、これほど効率よく利用できてしまうことなのかもしれない。

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